3)夢構想

仲間集め

レクサス車のラインナップ企画には、新しい言葉が書かれていた。 そこには、コアモデル(IS,GS,LS)と並んで 「レクサスプレミアムスポーツ」と書かれていた。 レクサスのイメージをエモーショナルな方向に拡大することを目的として 設定を提案したのである。 

しかし、なかなかそのイメージと効果を理解できる役員は少なく 提案書にその文字は書かれつづけるのだが、実質的展開は進まなかった。 多くの開発プロジェクトを抱え、開発も、生産検討もエンジニアのリソーセスは不足していたのだ。

その状況を打破する目的と、レクサス本体での開発以外での開発をする事業化ができないかを 検討するパートーナとして、トヨタ自動車と関係の深いヤマハ発動機のとある人物に相談を持ちかけた。 その人物は、かつてヤマハがF1に参戦していた時に、エンジン開発の陣頭指揮をとっていた K氏であった。K氏とは、チェイサーの開発と共に担当していた 最終型スープラ80 REASサスペンションの開発でお付き合いがあった。 REASサスペンションの効果は、スープラの開発の中で充分し理解していたので 前出のスーパーチェイサーを作る前に、チェイサーツアラーVにREASを搭載した車両を試作して 筑波サーキットを走って効果を確認したり、 また、JGTCチェイサーにも、S選手を通じてREAS搭載を提案して 雨のレースでは使用したりと、 (RrバンパーにはREASのスポンサーステッカーも貼ってある) トヨタの中で変なことをする人間であることを、知っていたK氏もこの計画に興味をもって 検討をしてくれた。

しかし、ヤマハの回答は、単独事業化ではなく、エンジン開発とか部品サプライヤとして関係していきたい というものだった。 もくろみ?に対する回答としては100点ではないが、充分であった。 エンジン開発をやってもらえれば、トヨタのスポーツの公式に当てはまるからだ。

あらたな、開発のパートナー探しが始まったのである。 次に、目をつけたのは トヨタテクノクラフト(以下TC)であった。 TCは、TRDを有し トヨタのレースカーの作製をすることは知られていたが その他にも、パトカーや救急車の製造やモーターショーカーを始めとする 特別な車両創りなども 手がける会社であった。古くは2000GTのサービスを行なっていたりした綱島工場が有名である。

当時のTCの社長は、K社長であったが トヨタの常務役員であったN氏へバトンタッチする直前であった。 N氏は、トヨタの企画部長などを経て役員になったが、実験部出身であったので旧知であったので 最初の提案はK社長にしたが、2回目からはN氏(のちN社長)のところへ相談を持っていくようになった。

一方、社内的には、レクサス企画部の戦略提案により、技術部の組織変更に合せ レクサスセンターが新設され、レクサスの開発が一体化された。 また、合せて 新型車の企画・コンセプトを検討するコンセプトプランナーと言う新しい仕組みが 本格スタートをすることになった。

レクサス企画部の仕事を進めながら、コンセプトプランナーとして プレミアムスポーツを具体的検討に 入ることが認められ、検討のパートナーとして シャシー設計出身でレクサス企画部で 仕事を共にしていいたSさんに手伝ってもらうことにした。実験屋と設計屋の組合せである。 ヤマハ、TCとの開発協業方法を検討しながら、具体的なコンセプトを二人で提案を練りはじめた。 プレミアムスポーツ開発を社内認知させ、中期商品計画に載せてもらえる様にする必要があったからである。

技術部の役員には,早い段階から必要性を認めてもらい・・・と言うより好きに進めさせてもらっていた。 それは、 レクサスセンターY役員、技術統括担当のK役員(元レクサス企画部部長)、 そして商品開発本部の専務のO氏(2代目LS主査)らであった。 いづれの役員も今までの仕事の中で、大風呂敷を広げるが何とか実現にこぎつけることを しっていてくれて、自由に検討を黙認?してくれサポートをしてくれていた。

先のヤマハとの結末・TCと新たに開発検討する話、車両のコンセプト等の検討状況は, 当時のS副社長にも報告をいれていた。 プロジェクトとして商品計画に認めてもらう為に、新規コンセプト検討会へ提案する等も行なった。

2003年秋には、コンセプトプランナーとして 検討会へ提案を開始した 技術部内の第一回目の提案で、試作型式を付与の許可得ることができた。 でも、まだ技術部内検討プロジェクトろして検討の継続がゆるされただけである。 現在進められているプロジェクトの進行に影響を与えないことを条件につけられた。 つまり、開発体制や生産方法にいたるまで、すべて従来とは異なる手法を考えないといけない。 予想されたことである。今までのネゴシエーションを進めないといけない。

0号車

まず行なったのは紙だけによるプレゼンだけでなく、体感してもらうプレゼンを行なうことであった 車両のパッケージで商品力を認めてもらう種類のクルマではないので エモーショナル というキーワードを体感してもらうことで、このクルマへの理解を得ようと考えた。

このコンセプト検討車の製作には、共同開発のスタディとして当然のようにTCに依頼した。 この”0”号車の設計進行に合せて TCで号口開発ができるかの検討を依頼することにした。 0号”製作の話を進めながら、課題を明確にしていくのだが、それは膨大にあった。 なぜなら、一台限定車は創った経験はあるが、工場のラインで製作するような車両の設計を したことが無かったからである。

また、先行き不透明なプロジェクトに人を充分に裂いてもらえるわけも無く、 M社長のところや、TCの役員のところへ何度も足を運び、少しずつ理解活動を行い 一人,二人と人を当ててもらって検討を進めることにした。

このTCでの検討には、欠かせない協力者が現れる。TCでクラウンコンフォートにスーパーチャージャー をつけた車両を企画して売り出していまった男、Tさんである。実は彼まだ若い、しかも文系出身であった。 でも、無類のクルマ好きで,企画力・実行力があり この企画にも直に興味を示し 仕事以上の関わりかたで強力な協力をしてくれ、このプロジェクトにとってのキーマンになってくれる。

0号車創りは、TCでの開発体制創りも兼ねた検討になっていくのである。 ボデー関係の改造は、救急車のメンバーが、シャシー関係はTRDのレースサス設計者が エンジンもTRDのレースエンジン関係者がと櫻井が各部門から集めた TC総動員とでも言った体制で検討を開始することで、”0”号車の製造も進み始めた。

しかし、昨今のクルマは電気制御自動車であって 電子関係の技術者がいないと動かないのである。 正式なプロジェクトではないので、トヨタ社内では、工数はあてがってもらえず、 関連会社である、トヨタコミュニーケーションシステム(以下TCS)に相談にいくことになる 相談先は、専務のO氏であった。 O氏は元トヨタの振動騒音エンジニアであり 初代LS400の振動騒音を開発していたときに、私に自由に仕事をさせてくれた上司でもあった。 O氏は当時を大変懐かしみ、面白い開発をまたやろうと 検討をしてくれた。

まもなく、クルマの電気神経というべきワイヤーハーネスの設計を、ベースのISの設計もして いた古川電工が対応してくれることになった。 でも、このプロジェクトで総合的に電気系を統括できる人材はなかなか見つからず、 TCSはついに新たに途中入社での人材探しまでしてくれることになった。 こんな経緯で、TCSに入社して、このプロジェクトに関わることになったのがKさんである。 Kさんも面白い経歴の持ち主で、元・無限ホンダで F1の電子エンジニアとして転戦していた 経歴をもち,愛車はNSXであった。 Kさんは、ハーネスからECUまでこのプロジェクトのまとめを行っていくことになる。

それでも、電気関係を問題なく進めるのは至難の業であった ベースのISの電子プラットフォームと、搭載しようとするV8エンジン用電子プラットフォームが 異なっているので、そこをつなぐ部分の設計が必要であったからである。 しかしだんだんに神経は繋がっていって、エンジンは始動することになる。

ところが、途中TCSが トヨタテクニカルデベロップメント(以下TTDC)に一部合併するにあたり、 TTDC組織のなかで、このプロジェクトの今後の電気関係の仕事が継続できるか 不透明になり、KさんもTTDCに移籍後、TCへ出向し TC内に電気関係をまとめる仕事のできる人材の 育成もすることになっていった。

この様に開発体制を構築しながら、社内の生産部門へのネゴシエーションも始まった。 のっけから、剣もほろろである そんな台数も少ないクルマが何故必要なのだ?・・・・・。 トヨタは台数の会社である。多くの人にクルマという移動機関を提供することが使命である・・・・。

”0”号車の製作も進めないといけない コンセプト提案車。紙でない 体験できるコンセプト提案スタイルである。 コンセプトは異なるが ある意味、スーパーチェイサーの再現であるともいえる。 あの時の実体験の再現が、紙とは異なる提案、スポーツカーの提案にはむいていると考えた。

ベースはIS300 直列6気筒+6ATの米国向けのレクサスである。 このクルマに、スープラのGTレース用に検討していた V8 5.2Lレース用ブロック (TRDに頼んで一番大きなものを調達)とLS430のシリンダヘッドを組み合わせたエンジンを製作 レース用のテストベンチに載せて エンジン適合を行なった。 低速トルクは予定どうり上がるが、高回転が伸びない。 空気が入らないのである。量産車のヘッドではダメダ! でも今はこれしかない、ギリギリの適合する。 ベースの260psから340ps以上にはなんとか上げる.トルクも54kgmと充分だが 5000rpm以上は伸びていかない。専用エンジン開発を決意した瞬間であった。

重いエンジンを載せる為、重量配分を調整する為に Fr廻りはすべてCFRPで作り直した。 バッテリーもトランクへ、ボデー下回りも補強をし、サスジオメトリも従来の知見からできる限り変更した。 床下の空力処理、熱対策のオイルクーラ類、ブレーキもAP製のモノブロック+ドリルドロータへと架装 しなおりした。

プレゼン車なので,見栄えにもこだわった。 営業系の役員に 商品としてある程度完成した形で見てもらい判断してもらう為だ。 試作車を見慣れない者にとって、切った貼ったの見栄えは商品には見えない。見かけは重要だ。 外装はエアロパーツに、フェンダの熱気抜き ,大径タイヤにMg鍛造ホイール。 内装は、アルカンターラ*本革フルバケットシートに、パドルシフト付きステアリングホイール 追加メータに、造形をしなおしたインパネなど、後に IS Fのディテールになる様なものは 殆ど入れ込んだ形になっている。

サウンドもプレゼン項目の重要なアイテムであったので 加速時に聞こえる吸気音とチタン製で新設したマフラー等演出した。 クルマは 4ヶ月あまりかけて完成し、2ヶ月後の役員試乗会へ向けて サスペンションのチューニングをする、 マスタードライバーのNさんに預けられた。 Nさんとは 初代LS400開発のころからの旧知の仲、いつか面白いクルマ作りたいよなと 士別試験場に移動する列車の中で話したことも思い出される。 Nさんは、役員試乗会が 東フジのテストコースで実施されることを知っていたので テストコースプレゼンスペシャルの足をセッティングしてくれた。 役員にも、コンセプトであるクルマの楽しさがわかり易い、操縦性デフォルメ化車両とでも 言えばわかり易いだろうか。車速も試乗会のリミット車速の160km/h以下の想定で・・・ 後でこれが少し怖い思いをする原因になる。役員は160km/hのリミットを楽しすぎて守って くれなかったのである。 つまり高速域ではチョット過敏な操縦性で 役員の隣で冷や汗を かくことになるのは,想像外であった。

Nさんの腕ならば、このセッティンッグでヤマハのテストコースをドリフトするのはお手の物であるので 問題はないのであるが、役員の運転方法が規定どうり行なわれると想定していたのである。

04年4月には 第2回目のコンセプト検討会が実施された。 ”0”号車の存在を示し、役員試乗会へ出展していと訴え、了承された。 技術部の役員は応援者である、このクルマの重要性を理解し、しっかり仕立てろと激がとんだ。 開発もTC&YHの協業体制でならと、認められた。

6月役員試乗会に出展された 天気の良い絶好の試乗日よりだった。”0”号車は注目を浴びた。 主催者の技術統括部も積極的にTop役員をクルマに導いて試乗を進めてくれた。 でも、想定外の出来事もあった、予想された(試乗会で規制された車速)を守ってくれないのである。 役員も楽しさとスピード感のなさ、安定性の良さで、200km/hで走るのである。 普通に走ってくれれば問題ないが、普段出さないスピードに気付いて 変な操作をされたらと 思うと心配で・・・、それが、取り越し苦労と理解するまではヒヤヒヤであった。 みんな ニコニコして楽しそうに運転して,雄弁になる。 1人3周の予定はドンドンオーバしていく トヨタの役員もみんなクルマ好き、運転好きと再認識した瞬間であったが 評判を聞きつけて集まった役員の試乗待ち行列ができてしまい こちらにもドキドキの体験であった。

試乗会場には、試乗車だけでなく、プレミアムスポーツの必要性を訴求するパネルと プロモーションビデオ!(なんでもビジュアルである)を上映するコーナーを設定しておいた 試乗会を運営する部署も協力してくれて,我々のコーナだけカーペット敷きにして目立たせてくれた。 「楽しいな、もっと乗っていたい」・・・「開発は!続けても良いかな」・・・ 役員試乗会は目的を達成した。・・・第一段階としてのプロジェクトの認知にはなった 認可にはならなかったが、役員も楽しんでくれたことが コンセプトの検証にもなったからである。

認知活動

プロジェクトの進行を加速させるエネルギーにもなった役員試乗会もおわり 社内の関係者とエンジンの開発の方向性について、走りの楽しさのキーワード探しの試乗会を開催した。 集められたクルマは、0号車、GS430*ツインターボ改造車、M3CSL、Alfa156GTA、マセラッティ、などなど 営業,開発,企画など 参加した関係者は 50人を超えた。

速さだけでない、運転の楽しさと それを感じられるキーワード ”サウンド、レスポンス、伸び感”のキーワードがこの試乗会で関係者で共通化認識することができた。

最大の市場になるはずである、アメリカの販社へプレゼンにも出かけた。 最初は半信半疑できいていた、商品企画グループも 0号の存在を知ると大いに沸いた。 目標の確認をすると言って、リクエストした競合車を自分のクルマ、友人のクルマ、販売会社からの レンタルなどで、要望したクルマをすべて集めてくれて、楽しいツーリングに行ったりした。 それからは、市場データ集め トヨタへのプレミアムスポーツリクエスト等 協力をしてくれた。 また、日本に来て0号に試乗後はさらに強固になり、その後デザインを含め 通常では、強い意見を言いなかなか ウンといわない 販社が なんでも言うことを聞いていれて 営業部門からは どうしたのかと 首を傾げられるほどであった。

0号ができたことで、コノプロジェクトを役員の間では”ヤグチ号”と言うニックネームで認識される 様になった。これには、先行して T CE の開発してた LFAとの区別の意味もあり”T氏号” ”ヤグチ号”と呼ばれて識別されていく様になった。 このニックネームとは別に 我々はこのプレジェクトを ”F-Sports”と呼んでいた。 レクサスの始まりは初代LSからであり、このプロジェクトは ○F:フラッグシップ と呼ばれていた。 レクサスの最初のスポーツカーなので、 最初のレクサススポーツと言う意味をこめて F-Sportsと呼んだのである。 最終の名称のIS FのFとは少しスタートが違うが・・・ こめられたものは変わらないと思う。 コンセプトはコンセプトプランナーとして最終の提案を行う段階に入った、 提案用のパワーポイントの枚数が、途中色々な背景が増えて100枚を越える膨大な量に成っていた プレゼンになっていたが、60枚のスリム?な提案になった。 役員試乗会のコメントを引用して、Top認知のあることを強調した。 開発体制も、ヤマハ、TC(TCS)と 社内各部との協力体制という,従来にない体制が構築された。

スポーツ専用エンジン(後に2UR-GSEと呼ばれるエンジン)の開発を決意して 直に,再びヤマハの扉をたたき、テクノとの共同開発体制をベースに協力を再度お願いする。 今度は、エンジン分野の話である。 エンジンの適合や運動支援システムの適合も含めて ヤマハの協力をえられることになった。 ベースエンジンの選定も含め 先行検討、先行試作エンジンでの検討が始まった。 この、ヤマハでのエンジン開発は調達部門のヤマハとの協業テストケースにも選定され認知された。

最後の決断である全社会議体に上程し、プロジェクト推進の許可をもらった。 もっとも、このプロジェクト単独提案での許可と言うより、 今後のスポーツ系全体の進め方の許可をもらうと 言う多少のドサクサ紛れ感もあるが・・これも、商品企画部門の協力による作戦であった。

2004年の夏の日のことであった。 同じ頃、なんとかエンジンを開発することの認可を得る会議体での承認も取り付けられた。 いままで、エンジン開発が正式にはOkが出ていなかったのである。 ヤマハとの共同開発をする、ベースエンジンとなるLSのV8も開発中で有った為 平行開発が本当にできるか、細部の承認を得ないといけなかった。 ヤマハが頑張って、なんどもエンジン部に説明を行った。 当初の目論見とは変わり、ベースエンジンとの共通部品も大幅にふやされて規模の見直しがされた。 開発が認められ、変更点だけベースエンジンに組付けての耐久テストを年内にも始められることになった。

スポーツエンジンとは言え信頼性は、通常エンジンレベルが求められていた。 時間のかかる耐久を早く回しておきたかったのだ。

12月には、開発アイテム、日程、原価などの最終計画を承認してもらう会議がある。 ここまでに、開発のすべてを数字に置き換えて、具体的にしていかないといけない。 ここで承認された、すべての数字を開発の過程でクリアする必要がある 担当者の検討は熱をおびて進められた、何度もネゴシエーションに行き、 タタキにたたかれて帰ってきて、またタタカレにいくのである。

12月、会議が終わった。承認された。 開発はコンセプトフェーズからやっと製品開発体制への移行したことを意味する。 それは、コンセプトプランナーから 開発責任者へ変わったと言うことでもある。全責任は自分にある。 自分の信じた、自分が創りたかった,自分が乗りたい クルマを創るのである。 前例は無い、すべて これから基準も含めて作っていくのである、仲間と自分を信じて。 いよいよ開発の先行検討を正式にスタートさせるときが来たのである。 でも、これは本当の開発スタートまでにはまだまだ遠く、至難苦行の始まりでもあった。


LEXUS IS F 開発備忘録 目次はこちら

これから順次アップしていきます。
2015~2016年カートップ誌に連載していたストーリーの原文になります。あえて当時書いたままの文章です。

投稿者プロフィール

office F.Regulus 矢口幸彦
office F.Regulus 矢口幸彦
元トヨタ自動車株式会社 IS F, RC F, GS F開発責任者 矢口幸彦
個人事務所ならではの『One to One』のサービスで、ワクワクしながら笑顔になれる働き方をお手伝いします。