2) 経験:会社生活のすべてが IS F に繋がっている
経験
スタート
1977年トヨタ自動車工業〈株〉に200名程度採用された事技員のひとりとして入社した。
短大・高専~ドクターまで合わせて、200人強。オイルショック後であり、
今から考えると少ない採用だ。この年の新入社員はこう総称されていた”人工芝”。
入社試験に来た時、指定されたビジネスホテルで一緒だった顔はあまりなかった。
面接の時は1955年生まれであり、同じ年のクラウンを作りたいとか言ったような気がする。
この、入社試験と面接には、東京から軽自動車で走ってきたのだが。
当日はホテルからその軽自動車で本社にきたが、駐車場がわからず、最後に停めたところが
後で知ったが役員車の駐車場であったのは、今思うと冷や汗ものである。
しかも、フェローMAX HTに自分で入れた当時のロータスF1に入っていたJPSストライプ
2スト360ccで40ps、タコメータのイエローゾーンが3000pm以下と7000rpm以上
2箇所にあると言うクルマ場違いなクルマであった。
会社生活がスタート
社内の研修は、会社生活全般から 車両・エンジンの分解組立て実習、
そして当時のE社長やS副社長、2人がそろって講和をしてくれる等1ヶ月あまり続いた。
5月からは3ヶ月の販売実習、大都市部の新入社員は自分の出身地に戻り実習するが
長野県出身の自分は戻ることなく、愛知県内岡崎市のオート店〈現在の(Net's店)にお世話になって
実習に入った。担当地区は当時業績の悪化していた、繊維産業の社宅地域。
朝、先輩セールスが現地まで、クルマで送ってくれて、夕方ピックップされるまで
最初は戸惑いのまま、握った指が赤くなるほどカタログを入れた重いカバンをもって
歩いてひたすら、配りまくった。
社宅は売れないだろうと、地元の民家を回った。
クルマはなかなか売れるものではなかったし、飛び込みで話をすることすら難しかった、
そのうち、何度も同じ家に通うと査定はさせてくれるようになったが。(3ヶ月で100台は集めた。)
いままで、趣味のように各社の販売店を巡っては、試乗したり、カタログをもらったりしていたが
まったく、逆の立場になると大変なことだ。つくづく痛感した。
最初はできなかったお客さんとの話をするようになると、当り前だが、自分とは違う趣味でなく
足としてのクルマ付き合う一般のクルマとの関係を身にしみて教えてもらえて、新鮮だった。
販売実習を終え、再び集合研修後今度は、2ヶ月の工場実習である。
行き先は、本社工場鍛造部。真っ赤に熱せられて 初期型で成形された部品を
こてを使って、プレス機に置き型抜きをする仕事だった。
手がこてを握りつづけるので、仕事が終わっても曲がったままで風呂で開いたりした。
夜勤も経験する。ひたすら熱い職場であった、唯一の気が抜けるのが型変えの時間であった。
実習が終わるといよいよ配属である。
技術部にどうしても行きたかった。生産技術も人が足らず配属が多そうと言う噂が飛び交った。
技術部で一番いそがしい部署を希望すると、技術部にいけるらしいとの噂もあり
先輩などから情報を収集すると、それはボデー設計らしかった。
当然、希望はボデー設計として提出した。
1年目
配属発表、1年の設計実習も兼ねた配属先は狙いどうり?ボデー設計であった。
配属され最初の顔合わせ、ここで説明をしてくれたのがS次長 (後の初代LSの主査である)
もともと、ボデー設計に居座るつもりはなく、本当はシャシーの設計をしたかったので
その場で、実習後の配属変更を希望するものと言われ、即手を上げた。
今、思えばボデー設計の経験は重要であった。クルマ全体の部品がわかるのである。
まず、最初は現図と言うものに始めてであった。
当時は、まだ手書きであったので、1/1の図面を大きな現図台の上に載って書くのである。
白いスラックス、白手袋で 極限まで削ったエンピツで0.1mm単位の図面をマイラー紙の
上で書くのである。図面に這いつくばって書くので大変である。
最も練習であるから、Frウインドウの展開図練習とか、試作図のお手伝いとかである。
ここで、クラウンの最後の2ドアHTのオペラウインドウの試作図の手伝いをしていた。
ボデー設計での研修が終わると、設計課へ配属である。配属先はギ装設計、ワイヤーハーネス係。
ここでは、クラウンのワイヤーハーネス(以下WH)の経路設計をすることになる。
見たことも無かった配線図を書き、クルマの隙間を縫ってWHを配する計画図を書き
リレーボックスを搭載するブラケットを書く。
ワイヤーハーネスはクルマ中にはり巡らされているのでクルマ中がよく解った。
最初に書いた小さな部品の試作品ができたときは、感動したし、その試作品の値段にビックリもした。
リレーボックスのブラケットの図面を提出したら、クルマ創りの司令塔である製品統括の
担当課長に呼びつけられ、面があっていない、形が汚いなど指導された。
製品統括の人は熱いなと感じた。何回か直すとよくなったと言われサインをしてくれた。
後のコロナの主査になる、K氏だった。
いつかは製品企画室で、自分のクルマ創りをしたいと思った瞬間であった。
電気ものは元々嫌いではなく、中学時代はごたぶんにもれず、ラジオだアンプだとかを自作
していた方なので、仕事は楽しかった。
試験車運転資格も申請して、早くテストコースなる所を走りたかった。
そのチャンスが最初にきたのは、トヨタ車でなく競合車であった。しかも出たばかりの
ポルシェ928である。雑誌ではみていた新型車に乗れるだけで満足であった。
最もそのときの資格では、テストコースの中速レーンと呼ばれる所をグルグル回るだけで
あったが。
また、ポルシェ928はバッテリーがトランクルームにあるのだがこれを知らない設計部署から
問合せがあり、教えにいったりしたが、こんなことも知らないのが自動車会社にいるのかと
思ったりもした。
仕事は楽しかったし、残業もした。図面の締め切りが迫った時に風邪を引いたらしく
38度以上の熱がでた、解熱剤と風邪薬を飲みながら1週間図面を書きつづて完成させた。
でも、翌日おしっこが赤かった。会社を休みトヨタ病院へ行って検査を受けたら
医者から、寮へ帰ることすら許されず、そのまま入院させられた。
風邪薬による肝炎であった。1ヶ月入院と言われ、職場に連絡した。
結局、3ヶ月入院するはめになり、病院の窓から花見の季節を過ごした。
経過が良くなると、薬を解毒し始め、全身に湿疹ができ、眼の網膜がゆがみ、目ダマに注射も
されたりした。散々な入院生活であった。
体調管理をしないといけないと始めて感じた。時遅しである。
退院後は寮で御飯を炊いて自炊して健康管理をした。
迷惑をかけ続けた設計実習だったが、仕事をするとのに必要な、人との関係の重要性を
教えてもらった大切な時期であった。
基盤
1年の実習が終わり、目論見?どうり配属変えになった。設計から設計には移動できなく
実験部に配属された。振動実験課である。
振動工学の授業は得意ではなかったので、気が重かったが
実験室をみてクルマに技術員も触れらることが解り楽しさに変わった。
ここで創られた人間関係、仕事の仕方等がゆくゆく重要になるのである。
ここでも、クラウンの6気筒系車の振動騒音開発を担当することになった。
テストコースで計測員としてバンクを初体験もした。普通は酔うらしいが問題は無かった。
振動騒音もクルマ全体を見られる、もってこいの職場であったし、技術員がツナギを着て
自ら、ドラムテスターで部品変えたり、計測したりできたのである。
ある日係長から呼ばれ、アイドル振動解析を指示された。
原因は排気管の共振が伝達され、ステアリング系が共振することらしかった。
排気管の振動を解析するのFEM解析を使えと指示された。専門部署と一緒になって検討した
FEM解析の初期の頃であり単純なモードも、再現には実機とのカーブフィットが必要であり
ベンチを組んで整合を取った。
そして対策として、排気管にダイナミックダンパーを設定したいと提案した。
排気管。熱の塊排気管にゴムの部品をつけたいなどとは、無茶な提案であったが効果は絶大
であり、なんとか実現させたかった。
関係部署に解るように、資料を書き、ダンパーを手作りして体験してもらった。
効果が理解されると、関係部署の検討は早くなんとかなることが解り、正式に採用された。
今では 色々な会社の車両の排気管にダイナミックダンパがついているが、これが最初であるはず。
実用新案でも出しておけばよかった。
これに味を占めて、新しいことをドンドン検討した。 クラウンターボのタービンノイズを
低減するとか、制振鋼板を使ってみるとか、風洞実験をしてはドアミラー形状を提案したりと
ルーチンワークの仕事だけで終わることはなかった。
他の係りに入った競合車もすべてテストコースで運転したりした。
それがチーフの指示どうりに仕事しないとかいわれ 課内会議でも
上司無視の突っ走りと問題になったりしたが、
結果がそれなりに出ていたので擁護してくれる他のU係長(のちの会長)がいたりしたので
なんとかお目こぼしをしてもらっていたようだ。
ある日、まったく新しいクルマを開発するという計画があることを知った。
○Fプロジェクト。初代LSである。
クラウンの開発にもそろそろ飽きていた時である。
当時のS係長から、次の担当車種の話が出たときに、即座に手を上げた。
S係長もわかっていたようで、その場で担当者にしてくれた。
LS400静粛性開発へ立候補
まったくゼロから始まるクルマである。ひとつの想いを実現させたかった。
振動騒音は、クルマを重くするとか、操縦性を悪化させるとか当時はまだクルマの性能では
ネガ潰しだけの部署であったし、クラウンのモータファンのテストで100km/hまでは静かだが
それ以上はベンツの方が静かとか書かれたりして自分として扱いに不満があった。
LSの開発責任者は、当初はJ主査であったが役員に昇格され、
S主査(現在のCEは当時主査の呼称であった)に変わった。
これは、チャンスとLSのベンツ、BMWにない売りの性能として世界一静かなクルマと
言うアイデアを説明した。当時はまだ係長でもない、チームリーダレベルであったが
課長に昇格していた、O課長が 間に係長を置かずに自由にやらせてくれていたので
S主査に直接説明に行った。
S主査への説得は容易ではなかったが、試作車を創り、実際に体験してもらうことで理解を得、
質量を重くしないことを条件に許された。
振動騒音は、質量が重いほうが振動し難いので難問であった。
そこで、考えたのが当時の消臭剤のコマーシャルにあった、臭いにおいは元から絶たなきゃダメ
であった。後にS主査が、源流主義と命名してくれた考えかたである。
(ボデーパネルの共振点変更、制振鋼板の発音対策も当然実施した)
考え方を理解してもらった後は、S主査はゴチャゴチャ言わずになんでもやらせてくれた。
精度を向上させるのに、検査基準を変え、その基準を測定する検査機まで開発指示してくれた。
100km/h以上の高速での静かさの為に、空力実験屋と一緒になって風洞にもこもった。
空力屋がデザインに提案するクレイモデルに織り込んだりした。
この頃は現物政策、会議資料しか作っておらず、報告書になっていないのが失敗である。
実際の試作車には対策を織り込み走りまわった。士別の試験場の直線ができると 夏休みを返上して
高速試験に行ったりもした。海外テストも何度も参加し、参加するだけでなく計画までしていた。
行きたくなると海外試験を自分で計画して担当部署と提案していた
おかげで、色々な道を走り、色々な体験をした、休日にドイツでF1をみたりして楽しんだ。
おかげで、初代LSは世界一静かなクルマとして認められたし、振動騒音が商品力に
成ることも証明できて満足だった。
すると、また新しいことがしたくなってきたいた。また、当時一緒にやっていた後輩に
自分達も前にでて仕事がしたいといわれ、2代目LSの開発ではサポートに回ることにした。
自分でするほうが早いのだが、我慢して自分の体験した楽しさを味わってもらえる様にした。
その分、初代マジェスタ、初代アリストのV8の振動騒音開発の仕上げをしたり
グループBのラリー車のWRC騒音基準の適合とかに手を出していた。
2代目LSの開発の時主査は O主査に代わっていた。
バブルがはじけた後の開発であり、開発環境は厳しかった。
その中では初代以上のレベルの改善ではなく、感じにくい音の開発に方針展開をした。
音創りである。個々の音を下げるだけでなくバランスをとると言う開発を行なった。
出来上がったLSは、初代LSとは少し異なった出来上がりであった。
理論値どうりであるが、それ以上ではなかった。人の想いによる 踏み込みの一歩が
不足しているように思いえた。自分の立ち向かい方に開発環境を言い分けにした今一歩が
足らないように感じたのである。自分の気持ちとして初代の開発に負けた気がした。
お客様の中にもそう感じられたかたもいたようで、2代目を買われたが初代に戻られた方もいた。
物創りの今一歩の気持ちは、お客様に素直に反映される。大いに自己反省した。
この想いはどうやら私だけではなかった様で、岡本をトップにした高級車を論じるW/Gを
興し、足りない何か探しを始めることになった。この事務局をしながら想いを整理していった。
そして、ブランド、ブランド創りと言うものを考え構築していくスタートになった。
転機
2代目のLSの開発で振動騒音開発業務に後輩育成含め区切りをつけ、部署移動の希望をだした。
企画部への異動希望をだしたのである。
開発責任者の主査の想いを実現させる様、性能・品質開発をコントロールする商品監査室へ
移動が決まった。最初はJZX100系チェイサーの車両の開発をサブとして行い、
全体を勉強することになった。チェイサーにはアバンテ、マークⅡにはグランデという
メイン車系がある。あわせてツアラー系というスポーツシリーズもある。
この、ツアラー系を開発しながら勉強をすることになった。
企画部への異動
ツアラーはターボエンジンのツアラーV、ノーマルエンジンのツアラーSがあったが
さらに、2Lのノーマルエンジンのツアラーの設定が検討されていた。
ここでも、H主査に色々提案をし、ツアラーにMT車の設定や、加飾パネルをリアルカーボン製
にしたりと自分の考えを反映させてもらっていった。
ツアラー系の開発では社内のコース以外にもサーキットを走り、その過酷さを理解した。
でも、JZX100シリーズとしてのツアラーであったので すべてが想いどうりというわけには
行かなかったが、スポーツ系の開発の楽しさを知った。
その後、プログレの開発で一本立ちさせてもらい。センチュリーのモデルチェンジ、SCの性能目標
設定、スープラのヤマハ製サスRIASの開発などを行い、人脈が広がっていった。
この開発を進めるなかで、自分の創りたいイメージがだんだんと明確になっていった。
それが、JGTS&スーパーチェイサーで見えたきがした。
コンセプトプランナー
車両開発と平行して、高級車を考えるW/Gとレクサスの商品を考えるW/Gの
事務局をしていく中でブランド戦略を具体的に自分の中で考えるようになった。
ちょうど、そのころ、全社としてレクサス強化のためにブランド戦略を考えるグループが発足し
私も、技術部代表として一人そこに参加し、今まで暖めたレクサスのブランド戦略を
会社Topへ提案するチャンスを得た。
1年に渡り、何度も書きなおした戦略を副社長、社長、会長へと直接説明に回って理解を
してもらっていった。
その結果、当時第3企画部部長のK部長を兼務部長にしたレクサス企画部を技術部内外から選出された
たった8名で新設し 具体的施策の検討に入った。
その提案のひとつレクサスセンター構想を、技術部組織改革グループに説明にいった
聞いてくれたのは、当時カローラの Y CEであった。
その提案は組織改革グループに取り入れられ、レクサスセンターが新設され、Y CE が昇格し
センター長となった。 組織改革と共に新しい制度が始まった。
コンセプトプランナー(以下CP)制度である。 新たな企画やモデルチェンジの企画を専任的に
検討するのがCPである。建てた企画は キャリーオーバーかハンドオーバして実行される。
レクサスのブランド戦略のなかに当然、ラインアップの企画があるのだが、
そのラインアップの中に最初から プレミアムスポーツを組み入れて提案をしていた。
レクサスの精緻だが、少し熱さの不足をしている部分を補っていけるラインアップである。
一部のクルマ好きのメンバーは、簡単に理解はしてくれたが 会社全体の商品ラインアップの中には
なかなか加えてはもらえなかった。
そこで、自らCPとしてこの企画を実現することにした。自分の夢であるクルマ創りをスタート
させて、今までの想いをすべてこの企画に詰めていきたいと思った。
レクサス企画部の仕事は、ブランド企画室となり N室長を中心に進んでおり心配なかった。
CPとして仕事を始める際に、どうしても設計出身のパートナーが欲しかった。
幸い直近く、同じブランド企画室に Sさん がいた。レクサス企画部の頃から一緒に仕事をして
私の変さ加減は理解していてくれるし、トラック系のシャシー設計・企画部の出身
であったのである。
投稿者プロフィール
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元トヨタ自動車株式会社 IS F, RC F, GS F開発責任者 矢口幸彦
個人事務所ならではの『One to One』のサービスで、ワクワクしながら笑顔になれる働き方をお手伝いします。
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